イタリア中部ラクイラ地震から10年、現地からリポート
イタリアの中部に位置するアブルッツォ州ラクイラ(l’Aquila)。この付近で2009年1月から4月に渡り群発地震が起きました。4月6日にはマグニチュード6.3の大規模地震が発生し、これらの地震によって4月30日までに309人が死亡、6万7000人以上が家を失いました。日本ではイタリア中部地震やラクイラ地震などと呼ばれているこの地震の被害は1980年南イタリアのカンパニア州で起きたマグニチュード6.9の地震以来となり、世界中で大きく報道されました。今年はラクイラ地震からちょうど10年目を迎えます。
地震対策をほぼしないイタリア、復興作業にも時間がかかる
私は以前、静岡朝日テレビで報道記者をしていた頃、静岡という土地柄、地震取材をよく担当しました。在職中には幸い大規模の地震は発生しなかったため、実際には被害の出なかった小規模地震や県庁や病院などで行われる災害訓練、浜岡原発の地震対策取材などを行っていましたが、静岡の人達は日頃からいつ来るかわからない地震への心構えができており、地震対策にも積極的でした。
ところがイタリアという国に来て実感したことが、この国は地震への対策はほぼしていないということ。イタリアは地震が発生しやすい国ですが、避難場所などを示した防災マップなるものもありません。家の耐震性を気にする人もいなければ、災害に備えての家庭に防災グッズを用意している人もいません。またイタリアには古い町並みがそのまま残っているところも多く、地震が発生すれば被害が大きくなることが目に見えるようなところも多いです。
イタリアの場合は被害が出てから復旧までも非常に時間がかかります。例えば3年ほど前、フィレンツェの自宅近くで道路に埋まっていた水道管が壊れて道路が200メートルに渡って陥没する事故が発生しましたが、復旧まで1年半以上かかっていました。
またイタリアの工事は日本よりもずっと時間がかかることが多く、「家の前の道路工事、もう2年ずっと同じ状態なのよ・・」といったようなボヤキはイタリア人からよく耳にします。
そんなイタリアでは大規模地震が発生した場合、果たしてどのくらい復興までに時間がかかるのか。10年経った現在のラクイラはどんな状態なのだろうか。そんな疑問の答えを実際に目にするべく復活祭(パスクワ)の4月21日、ラクイラへと出向くことにしました。
あれから10年・・・現在のラクイラの現状
ラクイラに着いたのはもう日が暮れた後の夜。ホテルは中心地から徒歩数分のところだったので、さっそくラクイラの中心部へ出かけることにしました。ラクイラはアペニン山脈の盆地にできた標高714メートルにあり、イタリアの州都としては最も高い位置にあるため4月下旬にも関わらず気温が低く厚手のコートが必要で、春のような陽気だったフィレンツェとの温度差を体感。
ラクイラの中心地へ足を踏み入れると、そこは街全体が工事現場の雰囲気でした。道路から瓦礫の山は既に撤去されており歩けるようになっていましたが、建物の前にはフェンスが張られ、ドアや窓が崩れないように木枠で固定されているところが多く見られました。以前はショップだったと思われる場所はそのまま放置され現在も空き店舗のままというところが目立ちます。
祝日というのに人もまばらで街はゴーストタウンのような雰囲気。修復が終わったと思われる建物も空き家ばかりで、まだ街に住民は戻っていないようでした。
メイン広場のドゥオモ広場(piazza del duomo)は他の地区よりも修復が進んでいましたが、工事用のクレーンやフェンスが残っており、人気も無いことからまるで映画の舞台セットのような雰囲気でした。広場に面した真新しく見えるマンションには「AFFITTASIアフィッタシ=貸家」の広告が目立ち、明かりの灯った窓は一つもありません。
街の中には数軒、若者たちで賑わっているBARなどもあり、地震後も逞しくラクイラの街で生き抜いているイタリア人たちの存在も目の当たりにしましたが、それでも地震発生から10年も経過したとは思えない、つい最近地震が起きたような印象をもったのが正直な感想です。イタリアはやはり、一度大災害が起きると復興には非常に長い年月がかかることを実感しました。
イタリアの新聞La Stampa(ラ・スタンパ)の4月6日の記事によると、ラクイラでは現在も3000ほどの家族が自宅に戻れておらず、この数は10年前に助けを求めた人達の2人に1人の数になるそうです。歴史的中心部での再建率は74%、郊外では55%、集落では21%どまり。
ラクイラ周辺の小さな村もいまだ地震の傷跡生々しく
翌日はラクイラから東へ30キロほど離れた小さな村Santo Stefano di Sessanio(サント・ステファノ・ディ・セッサニオ)へ向かいました。やはりここも村全体が工事現場のような状態。「イタリアの最も美しい村」に加盟する面影は各所に残っているものの、村の中心に建つメディチの塔は工事中で見られず、村の周りに瓦礫の山が残っていました。
ただ、サント・ステファノ・ディ・セッサニオは、人がまばらで寂しい雰囲気だったラクイラから一転、復活祭(パスクワ)の翌日のパスクエットの休日ランチを楽しもうとする人達や観光客たちで賑わっていました。10年経った現在も復興を遂げておらず工事現場のような状態とはいえ、観光客が多く訪れているため村には活気があり、レストランは満員のところもありました。
日本でもそうですが、被災地のホテルやレストランを利用することは被災地の復興の手助けにつながります。私もサント・ステファノ・ディ・セッサニオのトラットリアでランチを取ったところ、アブルッツォの人達の明るい笑顔に迎えられました。彼らに笑顔が戻っていることを嬉しく思いつつ、一刻も早い復興を願わずにはいられませんでした。
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